【海外旅行】1992年5月中国・花の江南旅情8日間(2/7)

【第2日】5月10日(日) 蘇州→無錫泊 レート:¥25/元。

 蘇州の「雅都大酒店」の朝です。モーニングコール(MC):7:00。バゲージアウト(BO)(スーツケースを部屋の前に出す):7:45。朝食(BF):7:45〜。出発:8:45。
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◎拙政園(せっせいえん):拙政園は明(みん)の時代の1505~1566年に造られた庭園であり、日本では室町時代となる。蘇州四大庭園の拙政園、留園(りゅうえん)、滄浪亭(そうろうてい)、獅子林(ししりん)のなかで最大規模であり、また中国四大名園の首位に位置づけられている。
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◎拙政園内の盆栽庭園。明代の大花瓶。
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◎水の都といわれる蘇州市内を流れる運河:
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◎虎丘:春秋時代,呉の闔閭(こうりよ)王(在位:前515‐前496)の墓址と伝えられる。呉王がここに葬られた後、白虎がここに臥していたという伝説から虎丘と名づけられました。いまは雲巌寺(うんがんじ)虎丘塔,剣池,千人石などがある。虎丘塔は五代後周の959年(顕徳6)に着工,北宋の961年(建隆2)に完成した塼塔(せんとう)。斜めの傾いている。
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◎蘇州雲巌寺塔の標識。
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◎虎丘公園にて:
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◎蘭莉園酒店(Lanliyuan Restaurant)昼食
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◎レストラン内での楽器生演奏:
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◎寒山寺(かんざんじ):臨済宗の仏教寺院。寒山拾得の故事で名高い。唐代の詩人の張継(ちょうけい)が詠んだ漢詩「楓橋夜泊」(ふうきょう やはく)の石碑があることでも知られる。
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 注)寒山拾得の故事:唐代の隠者,詩人である寒山と拾得のこと。9世紀ごろの人。確実な伝記は不明。寒山は始豊県西方70里の寒巌幽窟に住んでいたため寒山と呼ばれ、樺の皮をかぶって大きな木靴をはいていたという。拾得は天台山国清寺の豊干(ぶかん)に拾い養われたので拾得と称し、国清寺の行者となった。
 ふたりは7世代にわたる仇敵同士の家に生まれたが、豊干はふたりを悟りに導いたという。相交わるようになったふたりは国清寺に出入りし、その食事係となって衆僧の残した残飯や野菜クズを拾い竹の筒にたくわえて食糧とし、乞食同然の生活をした。
 時には寺域のなかで奇声・叫声・罵声を発し、時に放歌高吟したり廊下を悠々と漫歩したりして、しばしば寺僧たちを困惑させた。そして寺僧が追いかけると手を打ち鳴らして呵々大笑しておもむろに立ち去ったという。非僧非俗の風狂の徒だったが、仏教の哲理には深く通じていたといわれる。
 「寒山・拾得」は、宋(そう)代、禅の流行とともに愛好され、しばしば禅画の画題とされた。

 注)「楓橋夜泊」(ふうきょうやはく):唐の詩人・張継が詠んだ七言絶句。張継の唯一の代表作であり、孤独な旅愁を詠んだ名作として、古くから日本で最もよく知られた漢詩の一つとなっている。旅のさなか蘇州の水路にかかる「楓橋」のたもとで船中泊した作者が、夜半に鐘の音を聞き、郷愁でなかなか寝付けない秋の夜長を嘆く詩である。

 月落烏啼霜滿天 江楓漁火對愁眠 姑蘇城外寒山寺 夜半鐘聲到客船

 月落ち 烏啼いて 霜 天に満つ つきおち からすないて しも てんにみつ:月が沈み、からすが鳴いて、冷たい霜の気配が暗い夜空に満ちわたる。
 江楓 漁火 愁眠に対す こうふう ぎょか しゅうみんにたいす:川べりの紅葉した楓樹(もみじ)、漁船のいさり火が、旅愁に寝つけぬ私の目にうつる
 姑蘇城外の寒山寺 こそじょうがいのかんざんじ:姑蘇城外の寒山寺から
 夜半の鐘声 客船に到る やはんのしょうせい かくせんにいたる:夜半を告げる鐘の音が、この旅する舟のなかにまで聞こえてきた。(ウィキペディア)

◎「楓橋夜泊」詩石碑(拓本をとったため黒くなっている):拓本はお土産に買った。
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◎寒山寺の鐘楼:
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◎寒山寺の前の運河にかかる橋「楓橋」。
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 京抗大運河を船で、無錫へ……13:40~17:00。
◎京杭大運河(けいこうだいうんが):北京から杭州までを結ぶ、総延長2500キロメートルに及ぶ大運河である。戦国時代より部分的には開削されてきたが、隋の文帝と煬帝がこれを整備した。完成は610年。
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◎無錫:太湖に接した無錫市街は、典型的な中国の古い城壁都市であり、中心を隋代以来の「大運河」が貫き、京杭運河となった今でも多くの船が行き来する。無錫は有史以来非常に長い歴史を持つ。有史以前は6〜7000年前からの居住や農耕の跡があり、長江文明に属する良渚文化の墳墓など遺跡群がある。ここが呉の発祥の地の一つとなった。元来はスズ(錫)を多く産出する「有錫」という名の鉱工業都市だったという。余りにも多く掘り過ぎて前漢までに掘り尽くしてしまい、以来「無錫」になったといわれる。ただ異説もある。

◎湖濱飯店(HUBIN HOTEL):チェックイン。Y&A:805、K&T:806、N:808号室。
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 この日終わり。

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