【海外旅行】2010年9月フランスからスイスリゾート15日間(7/11)
【第8日】9月15日(水) リゾート→ジュネーブ→エヴィアン→リゾート泊 スイスフランCHF1=¥85。
「レゾート」4日目の朝です。晴れ。朝食パン、ハム/ベーコン・エッグ。今日はジュネーブ観光です。9:00 リゾート出発。高速経由でジュネーヴヘ。125km 。市内の駐車は難しいので、湖畔の地下大駐車場「モンブラン駐車場(Parking du Mont-Blanc)」に車を置く。
◎出入口:
注)モンブラン駐車場:1972年にレマン湖底に竣工しました。排気口や事務所以外は、すべて湖の下に作られています。駐車スペースはやや低めで中・小型用専用になっています。レマン湖周辺は、長い歴史を感じる建築物や石畳の道などが多くあり、そのような中に環境や景観を損ねる地上駐車場が建設が国民投票で禁止され、そのために地下に駐車場が作られました。
「モンブラン駐車場」からタクシーで「サン・ピエール大聖堂(Cathédrale Saint-Pierre)」へ。11:30。
◎サンピエール大聖堂:
ジュネーブが改革派宗教を採用した 1535 年以来、ジュネーブの主要なプロテスタント教会です。 1536 年「ジャン・カルヴァン(Jean Calvin)」は教会の改革を助けるためにギョーム ファレルにスカウトされました。
Yさんは「カルバン派」のキリスト教信者なのです。サンピエール大聖堂は「カルバン」との関わりの深い教会なので、今回、特に訪れました。
注)ジャン・カルバン(Jean Calvin):[1509~1564]フランスの宗教改革者・神学者。厳格な聖書主義に基づき、神の絶対的権威を主張して予定説を唱えた。スイスのジュネーブに招かれて、市政と教会の改革を指導。主著「キリスト教綱要」においてプロテスタント神学を大成し、長老派教会の基礎をつくった。(デジタル大辞泉)
大聖堂の建設は 1160 年に遡り、後に修復と再建が繰り返され、現在はロマネスク様式、ゴシック様式、新古典主義の様式が組み合わされています。
16 世紀半ば、宗教改革の到来により、室内装飾はすべて取り除かれました。塗装された装飾は消え、ステンドグラスの窓だけが残りました。18 世紀半ばに、中世のファサードが現在の新古典主義の建物に置き換えられました。
◎内部:
◎天井:
◎バラ窓
◎カルバンの椅子:
◎聖書台:
向かい側に「カルバン講堂(Calvin Auditorium)」があります。
◎内部:
◎「カルバン講堂」に置かれていた「日本語の説明書」
その内容:
--------------------------------
カルバン講堂:
5世紀、この敷地に司徽のためのチャペルとして、ローマ時代に作られた城壁に向かって小さな教会が建てられた。11世紀に、火事の後残っていた本堂のなごりを便ってロマネスク式の教会に建て替えられた。13世紀になると、この小さな教会は新ノートルダム教会という名前で教区の教会となった. 15世紀の半ば、再び火事によって壊されたため、現在のゴシック式のチャベルが建てられた。しかし、宗教改革の時には、この建物は名前と本来の働きを失ってしまった。
そのうちに宗教のために迫害されたたくさんの難民が、ジュネーブを避難場所としてやって来た。( 12,000人)この難民たちはフランス語を話さない国の人達だったので、自分達の詞で(英語、イタリア語、スペイン語、オランダ語、ドイツ語)礼拝を行なうことができるように、カルパンはこのチャベルを難民達が使える事を強く主張した。 こうして、この建物はジュネーブにおける最初の国際的な建物となった。
1557 年から、毎週朝7時(人々が働きに行く前)聖書についてまたは宗教改革の教義について皆で自由に討論する会合が開かれた。この会合でこそ、16 世紀のジュネーブに影響を及ぼした精神が鍛え作られたのであった。
また、カルバン講堂はカルバンが基礎を築いたジュネーブ大学の中心的な存在であった。それはここで、カルバン、ベーゼ、そしてその後継者達が、2世紀にわたって神学を教えたからであった。カルパンによって養成された牧師達は、ヨーロッパの他の国々へ福音を述べ歩いた。 1555年から1562年の間、ジュネーブで教育を受けた81人の牧師達は、迫害にあっているユグノー達(フランスのブロテスタン)を救援するために自分達の命の危険もかえりみずフランスに向かって行った。
1556年から1559年、イギリスの難民達は、自分達の牧師であったジョンノックの指導のもとで聖書を印刷した。それは古典的な聖書を英語に訳す時に、大きな着想を得る事のできる第二義的な解釈をした最初の聖書であった。ノックが行なった英語の礼拝は長老派の礼拝の模範となった。
ジュネーブの教会の長老派、牧師会が、長い間この建物に住んでいたが、1947年、この二つの会はクロワットロ通り2番地に移った。そして、19世紀
に付け加えられた建物と共に完全な形にするよう改築することが決められた。1959年、世界宗教改革協会が経費と建設の実行を受け持った。こうして、カルバン講堂.はジュネーブに住む外国語を話す人達の礼拝の湯所として、すべての国のブロテスタント教徒に再び門を開くことができるようになった。
カルバン講堂・建物の歴史
3世紀のローマの建物を基礎として、今日講堂がある湯所に、小さい規模の教会が、5世紀の終わりごろ建てられた。半円の後陣には、長老の長椅子、北側に洗礼堂、中央の祭壇の元懺悔台、玄関に続いてほぼ同じ大きさの四角い本堂があった。
11世紀の半ば、大きな災害の後、教会は建て直された。玄関は本堂と合体し、後陣は長方形になり半円天井が作られた。本堂はあらわに見える骨組みが付けられた。柱頭、化粧窓(光の通らない窓)などは、11世紀に作られたこの轍会の貴重ななごりとして、今も見ることができる.
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ここでも、記念撮影:
教会前の「カフェ・クレペリー・サンピエール」(Café-Crêperie Saint-Pierre) で「ガレット(そば粉のクレープ)」を2枚昼食に。
「市内観光トレイン」に乗ってみたかったが、時間が無いので断念。記念撮影のみ。
レマン湖畔を散策して……
帰路につく。14:20 ジュネーヴからの帰りは、エヴィアンEvian 訪問のため、レマン湖南岸を走る。ジュネーヴはスイスなので、iPad が効かないので、適当に北寄りを進んだっもりだったが、途中ガソリンスタンドで道を聞くと、やや大回りになっていた。
16:20 「スーパー・イー・レクラーク(E.LECLERC )」でウイスキー、ワイン、ヨーグルト、ケーキなどを仕入れる。€20.78。「エヴィアン・レ・バン(Évian-les-Bains)」(フランス・ローヌ・アルプ地方・オート・サヴォワ県) の町に到着。少し引き返し脇道を入ると、「ゴルフ場(Golf-d'Evian」 のプロショップがあった。
17:20、前年、宮里藍が「米女子ゴルフツアー初優勝」を果たした「エビアン・マスターズ」の舞台です。そのマスターズ・ロゴの入ったゴルフボールを2ダースお土産に買う。Kもここでゴルフ帽子を手に入れる。
町中に戻り、総ガラス張りのエヴィアンの建物を見つけ入っていくと、以前サロン風になっていて水が飲めたり、チョットした記念品が買えたのに、今はタダのオフィスに様変わり。残念。
17:50 、ここを離れ、リゾート帰着18:50 。夕食:ボンカレー。
この日終わり。
「レゾート」4日目の朝です。晴れ。朝食パン、ハム/ベーコン・エッグ。今日はジュネーブ観光です。9:00 リゾート出発。高速経由でジュネーヴヘ。125km 。市内の駐車は難しいので、湖畔の地下大駐車場「モンブラン駐車場(Parking du Mont-Blanc)」に車を置く。
◎出入口:
注)モンブラン駐車場:1972年にレマン湖底に竣工しました。排気口や事務所以外は、すべて湖の下に作られています。駐車スペースはやや低めで中・小型用専用になっています。レマン湖周辺は、長い歴史を感じる建築物や石畳の道などが多くあり、そのような中に環境や景観を損ねる地上駐車場が建設が国民投票で禁止され、そのために地下に駐車場が作られました。
「モンブラン駐車場」からタクシーで「サン・ピエール大聖堂(Cathédrale Saint-Pierre)」へ。11:30。
◎サンピエール大聖堂:
ジュネーブが改革派宗教を採用した 1535 年以来、ジュネーブの主要なプロテスタント教会です。 1536 年「ジャン・カルヴァン(Jean Calvin)」は教会の改革を助けるためにギョーム ファレルにスカウトされました。
Yさんは「カルバン派」のキリスト教信者なのです。サンピエール大聖堂は「カルバン」との関わりの深い教会なので、今回、特に訪れました。
注)ジャン・カルバン(Jean Calvin):[1509~1564]フランスの宗教改革者・神学者。厳格な聖書主義に基づき、神の絶対的権威を主張して予定説を唱えた。スイスのジュネーブに招かれて、市政と教会の改革を指導。主著「キリスト教綱要」においてプロテスタント神学を大成し、長老派教会の基礎をつくった。(デジタル大辞泉)
大聖堂の建設は 1160 年に遡り、後に修復と再建が繰り返され、現在はロマネスク様式、ゴシック様式、新古典主義の様式が組み合わされています。
16 世紀半ば、宗教改革の到来により、室内装飾はすべて取り除かれました。塗装された装飾は消え、ステンドグラスの窓だけが残りました。18 世紀半ばに、中世のファサードが現在の新古典主義の建物に置き換えられました。
◎内部:
◎天井:
◎バラ窓
◎カルバンの椅子:
◎聖書台:
向かい側に「カルバン講堂(Calvin Auditorium)」があります。
◎内部:
◎「カルバン講堂」に置かれていた「日本語の説明書」
その内容:
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カルバン講堂:
5世紀、この敷地に司徽のためのチャペルとして、ローマ時代に作られた城壁に向かって小さな教会が建てられた。11世紀に、火事の後残っていた本堂のなごりを便ってロマネスク式の教会に建て替えられた。13世紀になると、この小さな教会は新ノートルダム教会という名前で教区の教会となった. 15世紀の半ば、再び火事によって壊されたため、現在のゴシック式のチャベルが建てられた。しかし、宗教改革の時には、この建物は名前と本来の働きを失ってしまった。
そのうちに宗教のために迫害されたたくさんの難民が、ジュネーブを避難場所としてやって来た。( 12,000人)この難民たちはフランス語を話さない国の人達だったので、自分達の詞で(英語、イタリア語、スペイン語、オランダ語、ドイツ語)礼拝を行なうことができるように、カルパンはこのチャベルを難民達が使える事を強く主張した。 こうして、この建物はジュネーブにおける最初の国際的な建物となった。
1557 年から、毎週朝7時(人々が働きに行く前)聖書についてまたは宗教改革の教義について皆で自由に討論する会合が開かれた。この会合でこそ、16 世紀のジュネーブに影響を及ぼした精神が鍛え作られたのであった。
また、カルバン講堂はカルバンが基礎を築いたジュネーブ大学の中心的な存在であった。それはここで、カルバン、ベーゼ、そしてその後継者達が、2世紀にわたって神学を教えたからであった。カルパンによって養成された牧師達は、ヨーロッパの他の国々へ福音を述べ歩いた。 1555年から1562年の間、ジュネーブで教育を受けた81人の牧師達は、迫害にあっているユグノー達(フランスのブロテスタン)を救援するために自分達の命の危険もかえりみずフランスに向かって行った。
1556年から1559年、イギリスの難民達は、自分達の牧師であったジョンノックの指導のもとで聖書を印刷した。それは古典的な聖書を英語に訳す時に、大きな着想を得る事のできる第二義的な解釈をした最初の聖書であった。ノックが行なった英語の礼拝は長老派の礼拝の模範となった。
ジュネーブの教会の長老派、牧師会が、長い間この建物に住んでいたが、1947年、この二つの会はクロワットロ通り2番地に移った。そして、19世紀
に付け加えられた建物と共に完全な形にするよう改築することが決められた。1959年、世界宗教改革協会が経費と建設の実行を受け持った。こうして、カルバン講堂.はジュネーブに住む外国語を話す人達の礼拝の湯所として、すべての国のブロテスタント教徒に再び門を開くことができるようになった。
カルバン講堂・建物の歴史
3世紀のローマの建物を基礎として、今日講堂がある湯所に、小さい規模の教会が、5世紀の終わりごろ建てられた。半円の後陣には、長老の長椅子、北側に洗礼堂、中央の祭壇の元懺悔台、玄関に続いてほぼ同じ大きさの四角い本堂があった。
11世紀の半ば、大きな災害の後、教会は建て直された。玄関は本堂と合体し、後陣は長方形になり半円天井が作られた。本堂はあらわに見える骨組みが付けられた。柱頭、化粧窓(光の通らない窓)などは、11世紀に作られたこの轍会の貴重ななごりとして、今も見ることができる.
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ここでも、記念撮影:
教会前の「カフェ・クレペリー・サンピエール」(Café-Crêperie Saint-Pierre) で「ガレット(そば粉のクレープ)」を2枚昼食に。
「市内観光トレイン」に乗ってみたかったが、時間が無いので断念。記念撮影のみ。
レマン湖畔を散策して……
帰路につく。14:20 ジュネーヴからの帰りは、エヴィアンEvian 訪問のため、レマン湖南岸を走る。ジュネーヴはスイスなので、iPad が効かないので、適当に北寄りを進んだっもりだったが、途中ガソリンスタンドで道を聞くと、やや大回りになっていた。
16:20 「スーパー・イー・レクラーク(E.LECLERC )」でウイスキー、ワイン、ヨーグルト、ケーキなどを仕入れる。€20.78。「エヴィアン・レ・バン(Évian-les-Bains)」(フランス・ローヌ・アルプ地方・オート・サヴォワ県) の町に到着。少し引き返し脇道を入ると、「ゴルフ場(Golf-d'Evian」 のプロショップがあった。
17:20、前年、宮里藍が「米女子ゴルフツアー初優勝」を果たした「エビアン・マスターズ」の舞台です。そのマスターズ・ロゴの入ったゴルフボールを2ダースお土産に買う。Kもここでゴルフ帽子を手に入れる。
町中に戻り、総ガラス張りのエヴィアンの建物を見つけ入っていくと、以前サロン風になっていて水が飲めたり、チョットした記念品が買えたのに、今はタダのオフィスに様変わり。残念。
17:50 、ここを離れ、リゾート帰着18:50 。夕食:ボンカレー。
この日終わり。
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