【国内旅行】2008年4月 西行物語と西国札所巡礼8日間(12/14)

【第7日】4月18日(金) 八条→東山(西行堂/芭蕉庵/双林寺)→堀川(晴明神社)→大津→園城寺(西国十四番三井寺)→坂本(◆蕎麦「日吉そば」)→山科(西国別院元慶寺/遍照墓所)→京都→平野神社(桜)→八条(■新都ホテル)

 「新都ホテル・京都八条」の朝です。ホテルを9:00出発。東山の「西行堂」へ。

●西行堂:9:34~9:47
◎母屋「浄妙庵(じょうみょうあん)」:大徳寺塔頭真珠庵の別院「浄妙庵」を移したもの。
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◎花月庵(西行堂):西行は出家の翌年、永治元年(1141)から、雙林寺の塔頭である「蔡華園院」に止住していたようです。天正時代、頓阿上人が西行法師を偲んで建てた蔡華園院を、享保21年(1731)摂津池田李孟寺の天津禅師によりこの地に移築された。明和7年(1770)冷泉為村が修理した。その後明治26年(1892)宮田小文法師により、隣接する茶席(浄妙庵・皆如庵)が移築され現在にいたる。堂内中央厨子内に西行法師像、右に頓阿法師像、左に小文法師像が安置。中央に為村筆「花月庵」の額が掲げられてある。
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 門
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 すぐ隣に
◎芭蕉庵:9:49
 説明板の内容:この堂は、江戸時代中期、俳聖松尾芭蕉をしのぶため、芭蕉にゆかりの深いこの地に、加賀の俳人・高桑(たかくわ)闌更(らんこう)が営んだことに始まる。鎌倉時代の初め、諸国を旅して自然を友とした西行が、この地に阿弥陀房を訪ね、
 柴の庵と 聞くはくやしき 名なれども よにこのもしき 住居なりけり(山家集)
と詠んでいる。芭蕉は、この西行を心の師とし、西行を慕って旅の生涯を送ったが、この地で、先の西行の作歌を踏まえて、
 しばの戸の 月やそのまま あみだ坊(小文庫)
の一句を詠んだ。この句を生かして闌更が営んだのが、この芭蕉堂である。堂内には、蕉門十哲の一人、森川許六が刻んだ芭蕉の木造を安置する。木像を安置する。(以下略)
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  残念なことに、閉まっていて、門内に入れなかった。

◎双林寺(雙林寺)本堂:9:57
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 堀川一条の「晴明神社」へ……
◎晴明神社:10:38~11:05
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 由緒:御祭神 安倍晴明(あべのせいめい)御霊神
 沿革:安倍晴明は、孝元帝(こうげんてい)の御後胤で、幼時より御聡明で陰陽の道を極められ長じて陰陽寮天文博士として、朱雀、村上、冷泉、円融、花山、一条の六代の天皇に仕え幾多の御功績をたてられた。朝廷の祭政・生活の基範を陰陽の理を以て定められ、今日の我々の年中行事・占法等々に多くの影響を与えられている。一条帝の御代寛弘2年(1005年)9月 26日、御年85にてお亡くなりになると、帝の御鎮霊の勅旨をもって、清明公邸趾に寛弘4年(1007年)に神社としてまつられ現在に至る。
 御神徳:清明公は稲荷神の御分霊との信仰もあり、魔除け、厄除け、病気平癒、火除け、方除けの崇敬を集めている。
 清明桔梗印:当神社御神紋☆は桔梗印もしくは五芒星と呼ばれ、清明公の創められた祈祷呪符の一で魔除けの印である。天地五行(木火土金水)を象どり西洋諸国でも用いられる。
◎境内案内図:
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◎清明桔梗印・五芒星:
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◎厄除け桃:桃は古来より魔除け・厄除けの果物といわれており、古事記や日本書紀などでも魔物を追い払う様が描かれています。境内に桃の銅像が置かれてあり、その桃を撫でると厄が落ち健康になるといわれています。
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◎清明井:
 説明板の内容:御祭神清明公邸の古より湧き出ていた洛中名水の一で、諸病平癒の信仰が篤い。流水口が本年の恵方(えほう)を向いており、吉祥水が得られる。昔は此処は作動三千家の祖千利休終焉の地で、太閤秀吉に振舞ったり、最期に自服した茶も、この聖水で点てたものであろう。
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◎戻り橋と式神:晴明神社内にある「元・戻り橋」。現在のものは神社から南100mのところに架かっています。
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 注)一条戻橋(いちじょうもどりばし):京都堀川の一条通りに架かる橋。古代・中世を通じて京域の境とされ,この世とあの世の境ともいわれてきました。橋占(はしうら)の場所としても知られる。「平家物語」では、源頼光の頼光四天王の一人、渡辺綱が鬼の腕を太刀で切り落とした場所と伝えている。西行がここにきて,子どもと問答して,行く末が暗示され,そのまま橋を渡らず引き返したという逸話もある。
 注)清明と戻り橋・式神:一條戻橋の傍らには、式神の石像が置かれています。式神とは、陰陽師が使う精霊で、人の目には見えません。晴明公が、この地にお住まいになっていたころには、奥さまが怖がっておられましたので、式神は橋の下に封じ込められていました。その折には、式神がこの橋を渡る人の占い、つまり、橋占(はしうら)をしていたと伝えられています。
◎千利休居士聚楽屋敷趾:
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 この日つづく……

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