【国内旅行】2008年4月 西行物語と西国札所巡礼8日間(11/14)
【第6日】4月17日(木)のつづきのつづき 京都八条→城南宮(旧鳥羽離宮跡/庭園)→安楽寿院(鳥羽天皇陵/三尊石仏)→花園→法金剛院(待賢門院遺跡/仏像/庭園・青女滝)→嵯峨(西行井戸/去来墓/落柿舎)→太秦→蚕の社(三角鳥居)→八条(■新都ホテル)
「法金剛院」の次は、嵯峨の「天竜寺」の塔頭「弘源寺」の境外墓地の東側にある「西行井戸」へ行きました。
◎西行井戸:この付近に西行が庵を結んでいた時に使ったといわれる井戸。15:00
◎西行法師百人一首歌碑:昭和37年(1962年)6月 弘源寺により全国から募集された西行法師を偲ぶ歌・句、百首 の碑。墓苑の周囲にならぶ。15:02
◎西行井戸西行歌碑:15:02
山家集・秋歌:小倉の麓に住み侍りけるに鹿の鳴きけるを聞きて 西行法師詠
を鹿なく 小倉の山の すそ近み たゞひとり住む わが心かな
(意味:牡鹿が鳴く小倉の山裾近くにただ独りで住んでいると、世の中の煩わしいことにも囚われることもなく澄んでいく私の心だな 備考:住むと澄むの掛詞)
すぐ近くに……
◎落柿舎:松尾芭蕉の弟子・向井去来の別荘として使用されていた草庵。¥200×2。15:17~
◎芭蕉句碑:15:22
芭蕉・嵯峨日記(5月4日)より……一、四日 宵に寝ざりける草臥に終日臥。昼より雨降止ム。 明日は落柿舎を出んと名残をしかりければ、奥・口の一間一間を見廻りて、
五月雨や 色紙へぎたる 壁の跡(さみだれや しきしへぎたる かべのあと)
(意味:去来の別荘落柿舎滞在は、20日間に満たない短時日であったが、いよいよ立ち去るとなると改めて寂寥感も無いわけではない。しみじみと見れば、色紙を剥いだ跡の残る壁の模様などにも今更の思いが込み上げてくる。「へぎたる」は、剥ぎ取るの意。)
◎小倉餡発祥の地:15:30
説明板内容: 小倉餡(いぐらあん)発祥の由来
日本で初めて小豆と砂糖で餡が炊かれたのは平安京が出来て間もなくの820年の頃のことであります。 当時このあたり小倉の里に亀の甲せんべいを作っている和三郎という人がいて809年に空海が中国から持ち帰った小豆の種子を栽培し、それに御所から下賜された砂糖を加え、煮つめて餡を作りました。これを毎年御所に献上しました。こうした菓子は極めて高価で珍しいものでありましたので一般の庶民の口には入りませんでしたが、この和三郎の努力で京都を中心に小豆が広く栽培され、江戸時代には茶道の菓子となり。また一方では祝飯としてハレの料理にも加えられるようになりました。さらに空海は中国の亀の甲煎餅の技術も伝授し京菓子の技術は日本の和菓子の源流となりました。 和三郎は承和7年2月2日(840年)になくなりましたが、その子孫並びに諸国同業の人々がその功績をたたえて小倉中字愛宕「ダイショウ」の里に一社を建て、朝廷の允許を得て、屋号が亀屋和泉でありましたので、和泉明神としてまつられるようになりました。その後年月を経て明神の社は兵火に焼かれ、子孫も絶えて、只古老の伝承として小倉の地に和泉明神の社があったと伝えられています。 津田佐兵衛(六代)記 ←井筒八ツ橋本舗
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「三角鳥居」で有名な……
◎「木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社」別名「蚕の社」:その名の由来は、境内に蚕をまつる「養蚕神社」があるためといわれている。16:00~10
◎三角鳥居:本殿西に建てられている。京都三珍鳥居の一つ、「三柱鳥居」ともいう。三つの鳥居を正三角形に組み合わせた形が特徴。
◎西陣縮縮緬仲間の碑(にしじんちぢみちりめんなかまのいしぶみ):16:11
宿は今日も「新都ホテル・京都八条」です。夕食は蚕の社の「セブンイレブン」で「幕の内弁当」や「サラダ」「あんパン」「日本酒一合」など仕入れて¥1,910。部屋食。
この日終わり。
「法金剛院」の次は、嵯峨の「天竜寺」の塔頭「弘源寺」の境外墓地の東側にある「西行井戸」へ行きました。
◎西行井戸:この付近に西行が庵を結んでいた時に使ったといわれる井戸。15:00
◎西行法師百人一首歌碑:昭和37年(1962年)6月 弘源寺により全国から募集された西行法師を偲ぶ歌・句、百首 の碑。墓苑の周囲にならぶ。15:02
◎西行井戸西行歌碑:15:02
山家集・秋歌:小倉の麓に住み侍りけるに鹿の鳴きけるを聞きて 西行法師詠
を鹿なく 小倉の山の すそ近み たゞひとり住む わが心かな
(意味:牡鹿が鳴く小倉の山裾近くにただ独りで住んでいると、世の中の煩わしいことにも囚われることもなく澄んでいく私の心だな 備考:住むと澄むの掛詞)
すぐ近くに……
◎落柿舎:松尾芭蕉の弟子・向井去来の別荘として使用されていた草庵。¥200×2。15:17~
◎芭蕉句碑:15:22
芭蕉・嵯峨日記(5月4日)より……一、四日 宵に寝ざりける草臥に終日臥。昼より雨降止ム。 明日は落柿舎を出んと名残をしかりければ、奥・口の一間一間を見廻りて、
五月雨や 色紙へぎたる 壁の跡(さみだれや しきしへぎたる かべのあと)
(意味:去来の別荘落柿舎滞在は、20日間に満たない短時日であったが、いよいよ立ち去るとなると改めて寂寥感も無いわけではない。しみじみと見れば、色紙を剥いだ跡の残る壁の模様などにも今更の思いが込み上げてくる。「へぎたる」は、剥ぎ取るの意。)
◎小倉餡発祥の地:15:30
説明板内容: 小倉餡(いぐらあん)発祥の由来
日本で初めて小豆と砂糖で餡が炊かれたのは平安京が出来て間もなくの820年の頃のことであります。 当時このあたり小倉の里に亀の甲せんべいを作っている和三郎という人がいて809年に空海が中国から持ち帰った小豆の種子を栽培し、それに御所から下賜された砂糖を加え、煮つめて餡を作りました。これを毎年御所に献上しました。こうした菓子は極めて高価で珍しいものでありましたので一般の庶民の口には入りませんでしたが、この和三郎の努力で京都を中心に小豆が広く栽培され、江戸時代には茶道の菓子となり。また一方では祝飯としてハレの料理にも加えられるようになりました。さらに空海は中国の亀の甲煎餅の技術も伝授し京菓子の技術は日本の和菓子の源流となりました。 和三郎は承和7年2月2日(840年)になくなりましたが、その子孫並びに諸国同業の人々がその功績をたたえて小倉中字愛宕「ダイショウ」の里に一社を建て、朝廷の允許を得て、屋号が亀屋和泉でありましたので、和泉明神としてまつられるようになりました。その後年月を経て明神の社は兵火に焼かれ、子孫も絶えて、只古老の伝承として小倉の地に和泉明神の社があったと伝えられています。 津田佐兵衛(六代)記 ←井筒八ツ橋本舗
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「三角鳥居」で有名な……
◎「木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社」別名「蚕の社」:その名の由来は、境内に蚕をまつる「養蚕神社」があるためといわれている。16:00~10
◎三角鳥居:本殿西に建てられている。京都三珍鳥居の一つ、「三柱鳥居」ともいう。三つの鳥居を正三角形に組み合わせた形が特徴。
◎西陣縮縮緬仲間の碑(にしじんちぢみちりめんなかまのいしぶみ):16:11
宿は今日も「新都ホテル・京都八条」です。夕食は蚕の社の「セブンイレブン」で「幕の内弁当」や「サラダ」「あんパン」「日本酒一合」など仕入れて¥1,910。部屋食。
この日終わり。
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