【雑感】嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)
先日神戸「湊川神社」にお参りしてきましたが、祭神の「楠木正成(くすのきまさしげ)」はどんな人か?
参照)2022年06月16日【国内旅行】「舞子ビラ」一泊してきました(1/3)
私の様に、戦前神戸に住んでいた人は「楠木正成」=「大楠公」を知らない人はいなかったのですが。戦後の教育を受けた人は知らない人の方が多くなっているようです。私の中では「建武の中興」の功労者。戦術家。足利尊氏に神戸湊川の戦いで戦死。「大忠臣」。「菊水の紋章」。等が頭に浮かびます。
参照)私のブログ2020年04月25日【昔と今】神戸あれこれ(1/3)
と、2015年07月30日「大楠公祭」のこと
ちょっとウィキペディアから……
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楠木 正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。出自不詳。自称は橘氏後裔。息子に正行、正時、正儀。
元弘の乱(1331年 - 1333年)で後醍醐天皇を奉じ、大塔宮護良親王と連携して、千早城の戦いで大規模な幕軍を千早城に引きつけて日本全土で反乱を誘発させることによって、鎌倉幕府打倒に貢献した。
また、建武の新政下で、最高政務機関である記録所の寄人に任じられ、足利尊氏らとともに天皇を助けた。
延元の乱での尊氏反抗後は、新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。建武の元勲の1人。
南北朝時代・戦国時代・江戸時代を通じて日本史上最大の軍事的天才との評価を一貫して受け、「三徳兼備」(『太平記』、儒学思想上最高の英雄・名将)、「多聞天王の化生(けしょう)」(『太平記評判秘伝理尽鈔』、「軍神の化身」の意)、「日本開闢以来の名将」(江島為信『古今軍理問答』)と称された。
(中略)
明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。また、湊川神社の主祭神となった。
戦前までは、正成の忠臣としての側面のみが過剰に評価されていた。しかし、2000年前後以降は、何か一つの側面に縛られるような人間ではなく、武将・官僚・商人など、多面的な顔と才能を持つ人物であったことが明らかになってきている。
---------------引用終わり----------------
楠木正成について、評価は色々あるようですが、間接的ではありますがわが国の近代化に貢献したことを記しておきたいです。「明治維新」「尊皇倒幕」に貢献したことです。
……というのは、多くの勤王の志士が、この楠木正成の墓所を訪ね、志士たちの精神的支柱になったことです。高杉晋作、真木保臣、吉田松陰、西郷隆盛、伊藤博文、坂本龍馬、木戸孝允、大久保利通、三条実美等の名が残っています。
この墓所を、世に広く知らしめたのが「水戸黄門」として有名な水戸藩主光圀公。ここに「嗚呼忠臣楠子之墓」を建てたことによるのです。水戸光圀公は「大日本史」の編纂事業の中で、楠木正成の忠誠と正義の生涯をを知り、調査の末、この戦没の場所に、新しく墓碑を建てられたのです。
「嗚呼忠臣楠子之墓」の8字は光圀公自ら筆をとって書かれたものです。
裏面に書かれた「賛文」は漢文で長文なので、ちょっと読みにくいです。ネットで調べたらちゃんと解釈文がでていました。
「 2021-10-24嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)の原文解読❗️|関西ハイキング(神戸市中央区)」:https://kansai-hiking.hatenablog.jp/entry/kusunokimasasige-bohi
ちょっと拝借、転載しました。
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【原文】
忠孝著乎天下日月麗乎天天地無日月則晦蒙否塞人心廢忠孝則亂賊相尋乾坤反覆余聞楠公諱正成者忠勇節烈國士無雙蒐其行事不可概見大抵公之用兵審強弱之勢於幾先決成敗之機於呼吸知人善任體士推誠是以謀無不中而戰無不克誓心天地金石不渝不爲利囘不爲害怵故能興復王室還於舊都諺云前門拒狼後門進虎廟謨不臧元兇接踵構殺國儲傾移鐘簴功垂成而震主策雖善而弗庸自古未有元帥妒前庸臣專斷而大將能立功於外者卒之以身許國之死靡佗觀其臨終訓子從容就義託孤寄命言不及私自非精忠貫日能如是整而暇乎父子兄弟世篤忠貞節孝萃於一門盛矣哉至今王公大人以及里巷之士交口而誦説之不衰其必有大過人者惜乎載筆者無所考信不能發揚其盛美大德耳
右故河攝泉三州守贈正三位近衛中將楠公贊明徴士舜水朱之瑜字魯璵之所撰勒代碑文以垂不朽
【読み下し文】(この分は別のサイトから拝借)
忠孝は天下に著き、日月は天に麗く。天地日月無ければ、則ち晦蒙否塞し、人心に忠孝を廢すれば、則ち亂賊相尋ぎ、乾坤反覆す。余聞く、楠公諱は、正成、忠勇節烈、国士無雙なりと。其の行事を蒐むるに、概見すべからず。大抵公の兵を用ふるや、強弱の勢を幾先に審らかにし、成敗の機を呼吸に決す。人を知りて善く任じ、士を體して誠を推す。是を以て謀中らざるなく、而して、戦克たざるなし。心を天地に誓ひ、金石渝らず。利の為に囘はず、害の為に怵れず。故に能く王室を興復して、舊都に還す。諺に云ふ、前門に狼を拒ぎ、後門に虎を進むと。廟謨臧からず。元兇踵を接し、國儲を構殺し、鐘簴を傾移す。功成るに垂んとして主を震す。策善しと雖も而も庸ひられず。古より未だ、元帥前を妒み庸臣専斷して、大将能く功を外に立つる者有らず。之を卒ふるに身を以て国に許し、死に之くに佗靡し。其の終りに臨み子に訓ふるを觀るに、從容と して義に就き孤に託し命を寄するに、言私に及ばず。精忠日を貫くに非ざるよりは、能く是の如く整ひて暇あらんや。父子兄弟、世々忠貞に篤く、節孝一門に萃まる。盛なる哉。今に至るも王公大人より、以て里巷の士に及ぶまで、口を交へて誦説 して之れ衰へざるは、其れ必ず大いに人に過ぐる者有らん。惜しいかな、筆に載する者孝信する所なく、其の盛美大德を發すること能はざるのみ。
右は、故河攝泉三州の守、贈正三位近衛の中将楠公の贊、明の徴士舜水朱之瑜字魯璵の撰する所なり。勒して碑文に代へ、以て不朽に垂る
【解釈文】
忠孝(←君主に対する忠義と親に対する孝行を説かれた道徳思想)は天下についたものだから、改めて声高に忠孝を説く必要はない。忠孝をつくすことは人間にとって当然なことであり、自然なことなのである。それは太陽と月が天について万物を照らし育てているのと同様だからである。それ故、天地に太陽と月がなければ、真っ暗で動きのとれないふさがった状態になり、人の心から忠孝を廃すれば、乱臣賊子(らんしんぞくし:国に害を与える悪い家臣と親の心に背いて悪事をはたらく者)が相次いで起こり、国家世界は遂には転覆してしまうのである。
自分は聞いている。楠 正成(くすのき まさしげ)という人は、忠実かつ勇敢で、国中で比べる者がない程のすぐれた人物であると。しかしその楠公の行った偉大な事柄を集めてみても、その多くは埋もれて判明しないのである。その楠公の用兵の方法は、敵・味方の強弱の状態を戦いの前に細かく調べ、勝敗は一瞬で決するという。まさに戦いの妙にたけていたのである。それに人物の性格や能力を知って処遇し、有能な人を任用し誠意をもって事にあたらせた。そのために、計略はことごとく的中し、戦争は必ず勝利を得ることが出来たのである。
また、楠公は天地神明に誓って行動し、金や石の硬さと同じく心変わりすることがなかった。利益 によっても左右されず、威力によって脅かしたり恐れて避けようともしなかった。このことから、皇室を復興して後醍醐天皇を京都にお還しすることが出来たのである。しかし「前門の虎後門の狼」(立て続けに災難に見舞われること)といふことわざがある。つまり、前に北条高時を亡ぼしたが、それが足利尊氏の横暴を招くことにもなったのである。この大切な時に、朝廷の政治が不適切であったために悪人が次々に起こり、遂には皇太子である護良親王を無実の罪で葬るという大逆を行ったのである。
一方、楠公にあってはその功績があまりに大きかったことが原因で、後醍醐天皇に不安の気持ちを抱かせたのである。このような場合には、例えその献策が良くても採用されぬものである。昔から一番偉い人が、部下の功を妬んで妨害し、また愚臣が勝手に権力を振ふ状態では、どんな有能な武将でも外で勝利を得るといふことはありえないのである。
とどのつまりは、自分の一身を国に捧げ、わが身を国家のために犠牲にすること以外はなさらなかった。死を覚悟しても、ゆったりと落ち着いて大義に就き、一家の私事に及ぶことなく、すべて国のことのみであった。その混じり気のない忠義が太陽にまで到達するような人でなければ、討死することがわかっていながらも、整然として取り乱さず動じない態度を保つことは出来ないはずである。これは楠公だけでなく、親も子も兄弟も同じである。 誠に粋なことである。昔から今日に至るまで、上は皇室から身分高き人々、下は一般庶民まで、 皆口々に楠公の事を賞讃するところからみると、これは、楠公とその一門が、人々よりすぐれていたからであろう。しかるに残念な事は、記録文書がなく証拠によって確かめる確実なものがないために、楠公の盛美(この上もなく美しく立派なこと)と大徳(偉大な徳)を褒め称えることが出来ないと言うことである。
右はもとの河内、摂津、 和泉三国の太守、贈正三位 近衛の中将楠公の賛である。
これは明の学徳高き人で号は舜水、名は之喩、字は魯嶼の撰文である。それ碑文に代用して石に刻み、後世に残す。
---------------引用終わり-----------------
この文章は、明の遺臣、儒学者「朱舜水(しゅしゅんすい)」の文集にあった「楠公画賛」をそのまま採用されて、最後の二行を加筆したものです。刻まれた文字は京都の書家「岡村元春(おかむらもとはる)」によって謹書されてと伝えられる。
この賛文は元々、加賀藩主前田綱紀公が、狩野探幽に「桜井駅訣別図」を描かせ、そこに朱舜水が賛文を書くことになったものです。彼は儒学者安東省菴に依頼して、楠木正成伝を書いて貰い,百読して、熱烈な楠公崇拝者となり、これを執筆したとのことです。
参照)2022年06月16日【国内旅行】「舞子ビラ」一泊してきました(1/3)
私の様に、戦前神戸に住んでいた人は「楠木正成」=「大楠公」を知らない人はいなかったのですが。戦後の教育を受けた人は知らない人の方が多くなっているようです。私の中では「建武の中興」の功労者。戦術家。足利尊氏に神戸湊川の戦いで戦死。「大忠臣」。「菊水の紋章」。等が頭に浮かびます。
参照)私のブログ2020年04月25日【昔と今】神戸あれこれ(1/3)
と、2015年07月30日「大楠公祭」のこと
ちょっとウィキペディアから……
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楠木 正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。出自不詳。自称は橘氏後裔。息子に正行、正時、正儀。
元弘の乱(1331年 - 1333年)で後醍醐天皇を奉じ、大塔宮護良親王と連携して、千早城の戦いで大規模な幕軍を千早城に引きつけて日本全土で反乱を誘発させることによって、鎌倉幕府打倒に貢献した。
また、建武の新政下で、最高政務機関である記録所の寄人に任じられ、足利尊氏らとともに天皇を助けた。
延元の乱での尊氏反抗後は、新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。建武の元勲の1人。
南北朝時代・戦国時代・江戸時代を通じて日本史上最大の軍事的天才との評価を一貫して受け、「三徳兼備」(『太平記』、儒学思想上最高の英雄・名将)、「多聞天王の化生(けしょう)」(『太平記評判秘伝理尽鈔』、「軍神の化身」の意)、「日本開闢以来の名将」(江島為信『古今軍理問答』)と称された。
(中略)
明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。また、湊川神社の主祭神となった。
戦前までは、正成の忠臣としての側面のみが過剰に評価されていた。しかし、2000年前後以降は、何か一つの側面に縛られるような人間ではなく、武将・官僚・商人など、多面的な顔と才能を持つ人物であったことが明らかになってきている。
---------------引用終わり----------------
楠木正成について、評価は色々あるようですが、間接的ではありますがわが国の近代化に貢献したことを記しておきたいです。「明治維新」「尊皇倒幕」に貢献したことです。
……というのは、多くの勤王の志士が、この楠木正成の墓所を訪ね、志士たちの精神的支柱になったことです。高杉晋作、真木保臣、吉田松陰、西郷隆盛、伊藤博文、坂本龍馬、木戸孝允、大久保利通、三条実美等の名が残っています。
この墓所を、世に広く知らしめたのが「水戸黄門」として有名な水戸藩主光圀公。ここに「嗚呼忠臣楠子之墓」を建てたことによるのです。水戸光圀公は「大日本史」の編纂事業の中で、楠木正成の忠誠と正義の生涯をを知り、調査の末、この戦没の場所に、新しく墓碑を建てられたのです。
「嗚呼忠臣楠子之墓」の8字は光圀公自ら筆をとって書かれたものです。
裏面に書かれた「賛文」は漢文で長文なので、ちょっと読みにくいです。ネットで調べたらちゃんと解釈文がでていました。
「 2021-10-24嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)の原文解読❗️|関西ハイキング(神戸市中央区)」:https://kansai-hiking.hatenablog.jp/entry/kusunokimasasige-bohi
ちょっと拝借、転載しました。
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【原文】
忠孝著乎天下日月麗乎天天地無日月則晦蒙否塞人心廢忠孝則亂賊相尋乾坤反覆余聞楠公諱正成者忠勇節烈國士無雙蒐其行事不可概見大抵公之用兵審強弱之勢於幾先決成敗之機於呼吸知人善任體士推誠是以謀無不中而戰無不克誓心天地金石不渝不爲利囘不爲害怵故能興復王室還於舊都諺云前門拒狼後門進虎廟謨不臧元兇接踵構殺國儲傾移鐘簴功垂成而震主策雖善而弗庸自古未有元帥妒前庸臣專斷而大將能立功於外者卒之以身許國之死靡佗觀其臨終訓子從容就義託孤寄命言不及私自非精忠貫日能如是整而暇乎父子兄弟世篤忠貞節孝萃於一門盛矣哉至今王公大人以及里巷之士交口而誦説之不衰其必有大過人者惜乎載筆者無所考信不能發揚其盛美大德耳
右故河攝泉三州守贈正三位近衛中將楠公贊明徴士舜水朱之瑜字魯璵之所撰勒代碑文以垂不朽
【読み下し文】(この分は別のサイトから拝借)
忠孝は天下に著き、日月は天に麗く。天地日月無ければ、則ち晦蒙否塞し、人心に忠孝を廢すれば、則ち亂賊相尋ぎ、乾坤反覆す。余聞く、楠公諱は、正成、忠勇節烈、国士無雙なりと。其の行事を蒐むるに、概見すべからず。大抵公の兵を用ふるや、強弱の勢を幾先に審らかにし、成敗の機を呼吸に決す。人を知りて善く任じ、士を體して誠を推す。是を以て謀中らざるなく、而して、戦克たざるなし。心を天地に誓ひ、金石渝らず。利の為に囘はず、害の為に怵れず。故に能く王室を興復して、舊都に還す。諺に云ふ、前門に狼を拒ぎ、後門に虎を進むと。廟謨臧からず。元兇踵を接し、國儲を構殺し、鐘簴を傾移す。功成るに垂んとして主を震す。策善しと雖も而も庸ひられず。古より未だ、元帥前を妒み庸臣専斷して、大将能く功を外に立つる者有らず。之を卒ふるに身を以て国に許し、死に之くに佗靡し。其の終りに臨み子に訓ふるを觀るに、從容と して義に就き孤に託し命を寄するに、言私に及ばず。精忠日を貫くに非ざるよりは、能く是の如く整ひて暇あらんや。父子兄弟、世々忠貞に篤く、節孝一門に萃まる。盛なる哉。今に至るも王公大人より、以て里巷の士に及ぶまで、口を交へて誦説 して之れ衰へざるは、其れ必ず大いに人に過ぐる者有らん。惜しいかな、筆に載する者孝信する所なく、其の盛美大德を發すること能はざるのみ。
右は、故河攝泉三州の守、贈正三位近衛の中将楠公の贊、明の徴士舜水朱之瑜字魯璵の撰する所なり。勒して碑文に代へ、以て不朽に垂る
【解釈文】
忠孝(←君主に対する忠義と親に対する孝行を説かれた道徳思想)は天下についたものだから、改めて声高に忠孝を説く必要はない。忠孝をつくすことは人間にとって当然なことであり、自然なことなのである。それは太陽と月が天について万物を照らし育てているのと同様だからである。それ故、天地に太陽と月がなければ、真っ暗で動きのとれないふさがった状態になり、人の心から忠孝を廃すれば、乱臣賊子(らんしんぞくし:国に害を与える悪い家臣と親の心に背いて悪事をはたらく者)が相次いで起こり、国家世界は遂には転覆してしまうのである。
自分は聞いている。楠 正成(くすのき まさしげ)という人は、忠実かつ勇敢で、国中で比べる者がない程のすぐれた人物であると。しかしその楠公の行った偉大な事柄を集めてみても、その多くは埋もれて判明しないのである。その楠公の用兵の方法は、敵・味方の強弱の状態を戦いの前に細かく調べ、勝敗は一瞬で決するという。まさに戦いの妙にたけていたのである。それに人物の性格や能力を知って処遇し、有能な人を任用し誠意をもって事にあたらせた。そのために、計略はことごとく的中し、戦争は必ず勝利を得ることが出来たのである。
また、楠公は天地神明に誓って行動し、金や石の硬さと同じく心変わりすることがなかった。利益 によっても左右されず、威力によって脅かしたり恐れて避けようともしなかった。このことから、皇室を復興して後醍醐天皇を京都にお還しすることが出来たのである。しかし「前門の虎後門の狼」(立て続けに災難に見舞われること)といふことわざがある。つまり、前に北条高時を亡ぼしたが、それが足利尊氏の横暴を招くことにもなったのである。この大切な時に、朝廷の政治が不適切であったために悪人が次々に起こり、遂には皇太子である護良親王を無実の罪で葬るという大逆を行ったのである。
一方、楠公にあってはその功績があまりに大きかったことが原因で、後醍醐天皇に不安の気持ちを抱かせたのである。このような場合には、例えその献策が良くても採用されぬものである。昔から一番偉い人が、部下の功を妬んで妨害し、また愚臣が勝手に権力を振ふ状態では、どんな有能な武将でも外で勝利を得るといふことはありえないのである。
とどのつまりは、自分の一身を国に捧げ、わが身を国家のために犠牲にすること以外はなさらなかった。死を覚悟しても、ゆったりと落ち着いて大義に就き、一家の私事に及ぶことなく、すべて国のことのみであった。その混じり気のない忠義が太陽にまで到達するような人でなければ、討死することがわかっていながらも、整然として取り乱さず動じない態度を保つことは出来ないはずである。これは楠公だけでなく、親も子も兄弟も同じである。 誠に粋なことである。昔から今日に至るまで、上は皇室から身分高き人々、下は一般庶民まで、 皆口々に楠公の事を賞讃するところからみると、これは、楠公とその一門が、人々よりすぐれていたからであろう。しかるに残念な事は、記録文書がなく証拠によって確かめる確実なものがないために、楠公の盛美(この上もなく美しく立派なこと)と大徳(偉大な徳)を褒め称えることが出来ないと言うことである。
右はもとの河内、摂津、 和泉三国の太守、贈正三位 近衛の中将楠公の賛である。
これは明の学徳高き人で号は舜水、名は之喩、字は魯嶼の撰文である。それ碑文に代用して石に刻み、後世に残す。
---------------引用終わり-----------------
この文章は、明の遺臣、儒学者「朱舜水(しゅしゅんすい)」の文集にあった「楠公画賛」をそのまま採用されて、最後の二行を加筆したものです。刻まれた文字は京都の書家「岡村元春(おかむらもとはる)」によって謹書されてと伝えられる。
この賛文は元々、加賀藩主前田綱紀公が、狩野探幽に「桜井駅訣別図」を描かせ、そこに朱舜水が賛文を書くことになったものです。彼は儒学者安東省菴に依頼して、楠木正成伝を書いて貰い,百読して、熱烈な楠公崇拝者となり、これを執筆したとのことです。
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